「東京は坂の多いまちである」というラジオから流れてくることばを、行ったことのない、行くつもりもないどこか遠い場所の観光案内を読むような気分で地方の受験生として聞いていた瞬間を思い出すことがある。その東京の坂を自分も毎日のように息を切らしながら上り下りするようにやがてなるのだとは、その頃には思いもよらなかった。
武蔵野台地の端にあたる場所は長い年月をかけて海や川、湧き水によって溶け崩されてお非常に複雑で高低差の激しい地形となっていることが多い。本郷や谷中においてもしかり、馬込や大森においてもしかりである。縁あって馬込に移り住むこととなってしばらくはこの険しい地形を圧倒される思いで見ていた。やがてこの地形を生み出すのに大きな役割を果たしているもののなかにひと筋の川があることが理解できるようになってきた。その名を内川という。
平成、令和という年号の時代において内川は、およそ馬込と名のつく土地においては全て暗渠化されておりその姿を見ることはできない。開渠として姿を現わすのは大田区中央と大森西の境目、JR東海道線の線路の下からである。馬込における内川の暗渠化は昭和四十年代までに行われたと聞いており、このか細かった流れが顧みられることはほとんど無いように思われる。急激に都市化を進めた結果、川だけではなく馬込では豊富に出たという湧き水、井戸も枯れてしまい、江戸期に整備された用水もことごとく生活用水や工場排水に汚染され慌てたように埋め立てられてしまっている。
とはいえ馬込は大正から昭和初期にかけて多くの画家や作家が住んでいた土地でありその歴史を誇って「馬込文士村」と称するほどの土地である。ならば画家や作家が生活していた時にあしもとを流れていた内川を、風景の一部としてかき遺してはいないだろうか。その断片を探して彷徨い歩くことで、私も内川の姿を描き遺してみたいとおもう。
以下は Web 公開用の、はしがきへの追記である。
『内川逍遥』は元々「電子雑誌トルタル」への連載作品として執筆を始めたものだった。「プロフィール」にも書いた「マチともの語り」の運用が終結に向かっていた頃に運営されていた有限会社
トルタルの主催者のひとりである古田靖さんが二〇二二年七月二十三日に突然病没された。「トルタル」以外でさほど関わりがあったとは言えない私もショックを受けたのだが、と同時に「トルタルの参加者同士が勝手にコラボレーションしていたりするのが良い感じ。コラボレーションとか好きにやってもらっていいし、掲載作品の他への転載も気にしないでやってほしい」というような主旨のことを仰っていたのを思い出し(先延ばしにしていた著作サイトをつくって自分でやる時が来たんだな)と考えるに至った。当サイトを構築したのはそういった経緯による。
「電子雑誌トルタル」に掲載していた作品は当サイト掲載にあたっては頭から改稿している。ボイジャー社の「BinB」と note でも公開していたのだが、改稿にあたって新たに気がついた事実があったり、そもそも内容が不十分であったりしたため未公開化するよう進めている。