家船の影

 江戸時代までと明治以降、第二次世界大戦前後、日本は文化の断絶のような事態を起こした。受け継がれてきた文化や技術といったものが価値観の激変をきたしたことによって、あたかも役に立たないものであるかのように打ち棄てられようとしてしまう。抗えずに打ち棄てられてしまった文化がある一方で、当事者の熱意によって生き延びた技術もあった。浮世絵はその両方の出来事に遭遇した芸術であったと言える。

 浮世絵版画が明治以降に二束三文で海外に売られ流出し、欧米の画家に影響を与えた事によってはじめて日本で再評価されるに至った、という経緯はよく語られるところであるが、一方で明治以降も優れた画家により美しい浮世絵は生み出され「新版画」などと呼ばれた。新版画の描き手としては竹久夢二や伊東深水、鏑木清方や弟子の川瀬巴水といった画家の名前が思い浮かぶ。

 川瀬巴水は馬込に居住していた時期がある画家でその傑作のひとつに『馬込の月』がある。おそらく内川上流の流路のわりと近くの丘陵地に出た満月が松を照らしている風景を描いているのだが、ここで取り上げるのは巴水ではない。高橋松亭のとある版画である。

 松亭は浅草橋辺りの生まれのひとだが伯父である松本楓湖に師事して絵を学び浮世絵画家となった。のちに大田区矢口や品川区戸越に居住し付近の風景を題材にした新版画を描いている。そしてそのなかに『内かわ雪』という版画がある。

高橋松亭『内川かわの雪』 大田区立郷土博物館画像提供
高橋松亭『内川かわの雪』 大田区立郷土博物館画像提供

 内川の河口付近の風景を描いており、手前に河口の流れと停泊する船が、奥に東京湾が広がっている構図である。遠くに見える鳥居の朱まで浜には何もなくただ雪が降り積もっている。川端には柳。鳥が杭に一羽止まり三羽飛んでいるのは烏だろうか川鵜だろうか。

 大日本帝国陸地測量部による大正時代の地図をみると内川河口南岸には「瓦斯製造所」がある。これは後の東京ガス工場であり、更には現在の東京ガス大森グランドがある場所ということになる。松亭が構図として選んだ浜はのちにこの東京ガスの敷地になる場所であろうと思われ、となると奥に望める鳥居は鷺之森稲荷であろう。今世紀に入ってから内川の河口部では埋め立てが行われ「ふるさとの浜辺公園」という海浜公園がつくられており、高橋松亭が描いた内川は今の河口よりも少し上流であったはずで現在の河口から鳥居を見ることはできない。ただ公園として埋め立てたことで現在の河口はあたかも松亭がみた浜辺を残しているかのような錯覚を私に覚えさせてくれる。

『大田区の文化財 第24集 地図で見る大田区(1)」に収められている大日本帝国陸地測量部の大正六年測図の地図と国土地理院の地図を並べてみた。大正期地図に円を施した鳥居が鷺之宮稲荷で現在も同地に鎮座する。鷺之宮稲荷から南に少し行った四角で示した場所には後述する貴船神社が鎮座する。

 ところで『内かわの雪』で河口に二艘の小舟が繋がれていて、その舟の上で何やら鍋を煮炊きしているらしい人物が描きこまれているところに私は興味を惹かれた。内川は上流を馬込に持つごく短い流れであるので船が頻繁に上り下りするということではなかったのではないかと思われ、おそらくは漁師船ないし海苔舟が河口に停泊していたのが構図に取り込まれたかと推測される。ところで何故この寒さの中で炊事をしているのだろうか。漁を終えて一服しているのだろうか。

 これは家船えぶねが描きこまれてしまったのではないか。

 この絵に接してわりとすぐに浮かんだ考えに私は囚われるようになった。家船とはつまり水上生活者およびその住居たる船を指す言葉である。松亭がこの絵を描いたのは大正から昭和初期のどこかであったようなのだが、江戸期からこの辺りにいた水上生活者がその時期まで残っていたということはないだろうか。

 私が家船に興味を持っていたのは網野善彦氏の『古文書返却の旅』(中公新書、一九九九年)を読んでいたからだった。網野氏は若き頃水産庁東海区水産研究所内に置かれた日本常民研究所月島分室が行なった、各地漁村旧家から古文書を借用し調査するプロジェクトに参加される。膨大な古文書は資料整理の遅れや水産庁の予算打ち切りのため未返却のまま取り残されるのだが、はるか後年になって網野氏がお詫びとともに返却していく、その過程を記録された著作だ。民俗研究史としても、関わった研究者たちのエピソードとしても読み応えのある内容になっている。

 この『古文書返却の旅』に霞ヶ浦および北浦周辺旧家についての章がある。章の冒頭、調査に行く前の回顧譚として渋沢敬三氏がわざわざ網野氏に「家船の痕跡を確認できる可能性があるから気をつけるように」と助言していかれたという話が出てくる。漁業史における功績が大きい渋沢であれば家船についても知っていただろうが西日本に多く見られたものであり、関東圏において存在したと分かれば新発見になり得るという思いがあったのかもしれない。網野氏は霞ヶ浦・北浦において漁民すべてが入会権を持つという自治組織の存在をがあったことを調べ上げられその後の研究の礎のひとつとされるのだが、そのきっかけには渋沢氏の助言があったと言える。

 霞ヶ浦・北浦で見られたのは水上生活者というよりも武家とも農村とも異なる価値観、文化を持った漁民集団だったわけだが、江戸期から明治にかけての大森の海辺においても陸上の生活とは別の常識で以って行われているような生活が存在し得ただろうか。

 かつての内川河口あたりから南に行くと貴船神社が鎮座していてその境内参道には「漁業納畢之碑」という巨大な石碑が奉納されてある。一九六二(昭和三十七)年に貴船神社の氏子である漁業者の団体が東京湾の埋め立て計画を受けて漁業権を放棄した、その経緯を記したものである。ここでいう漁業者というのはほぼ海苔養殖業者であったと考えてよい。

 近くを流れる呑川の河口付近には小型船が係留されているのを今も見ることが出来るが、大森が海苔養殖の中心地であった時代においては呑川はもちろん内川の下流部も海苔船の係留場所として使われていた。海苔業は十月にかけてひびを建て網を張るなどの準備、十一月から三月にかけて漁を行う。であれば『内かわの雪』に描かれたのは地元の海苔養殖業者の漁期真っ最中の風景に過ぎないのかもしれない。

 いや、と私は考える。冬の寒い時期が漁期の海苔漁の寒さは大層辛く、海苔摘みを終えた漁師は急いで家に戻って暖を取ったのではなかっただろうか。また、係留場所として河口は良い場所ではない。海苔は摘んだ翌朝に包丁で刻み海苔簀に付ける作業を行なっていた。その作業場に近くまで川や堀を遡った船が多かったはずで、ならば河口付近で煮炊きをしている船というのは主たる漁師の船ではないことを示しているのではないだろうか。

 海苔漁の繁忙期には遠隔地から出稼ぎにくる人達がいて、主に担当した作業からの呼び名か男性は「潮取り」、女性は「干しっ返し」と呼ばれたという。住み込みが多かったであろうが、中には自らの船で起居した潮取りが居たのかもしれない。海苔漁に関する記録を紐解いても自らの居住空間としての船で仕事を求めて大森にやってきた漁民がいたという情報は見つけられていないのだが、文字ではなく絵として家船が記録されたのではないかという推量を私は棄て去ることができずにいる。

 東京湾には明治から昭和初期にかけての水上生活者が増えたという。昭和三年の東京府による調査書『水上生活者の生活現状』では調査対象世帯の前職を調査した結果が読めるが漁師もそれなりの数おられる一方で船頭はさらに多く、農家はさらにそれをうわ回っている。出稼ぎのために東京に出てきて、親方から船を借りて運搬業につきその船で生活をしているという、やむにやまれず住んでいるというような例が多かった。今東京湾でそのような生活を見ることはないが戦後も少なくとも高度経済成長期ごろまでは見られたようだ。こうやって行政的な調査を通してみると珍しいことは何もなかったようにも思える。

 昭和十年の東京市の国勢調査結果を読むと内川にも何世帯かが船上で暮らしておられたということである。その中に内川の河口辺りで暮らしていた家船も含まれていたかどうかも、この船上の人物が私の空想の中のように江戸期以来の独自文化の末裔だったのかなどはもちろん分らない。

埋め立てが進んだあとの内川河口

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