城さんの散歩道

 捕物帳小説をしきりに読んでいた時期があった。野村胡堂さんの随筆集『胡堂百話』を読んだところ面白く、そこから興味を持って『銭形平次捕物控』に限らず広く捕物帳小説を読んだ。

 一九八〇年代後半私は奈良県内の私立高校に通う学生であり高校の最寄り駅は近鉄大和郡山駅だった。駅前は少し離れた場所にあるJR郡山駅との間が商店街となっており、また近鉄の線路沿いには「郡山銀座」という寂れた雰囲気の商店街があり、どちらにもよく下校時に寄り道をした。郡山銀座には線路との間の狭い敷地に古本屋が一軒あり私の寄り道先のひとつだったのだがそこで城昌幸さんの『若さま侍捕物手帳』に出会った。計算された筋立てのうまさ。みごとに張り巡らされた伏線。登場人物の自然な会話で組み立てられた読みやすい文章。乱読したこのジャンルの中でもこのシリーズは特に好きで今でも読み返すことがある。彼の作品を大和郡山駅前で見つけた高校生は長じて、この卓越したストーリーテラーにして詩人、というひとが暮らしたまちに導かれるようにしてやってくるのである。

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私が高校生の時に古本屋で出会った城昌幸さんの『若さま侍捕物手帖』

 城さんが自ら其蜩庵きちょうあん1と名付けたご自宅は現在の住所でいうと大田区中馬込にあった。内川が馬込の地を削って出来た丘の中腹といった場所にあり内川の源流にごく近い。中馬込のすぐ北を通っている環状七号線道路を越えると北馬込は丘になっていて、丘の中腹には大田区が設置した内川源流地を示す石碑がたててある。実際の源流地はさらに丘を北西にのぼっていた馬込第三小学校の敷地付近ではないかというのが私の推測なのだがここではいったん措く。ここでは城さんの文章をたよりに、其蜩庵のある内川上流部から中流部にかけての姿をうかがってみたい。

一番低くなっているあたりが内川暗渠で右側が源流地方面。左側に向かって流れていた。
奥の坂を上っていく途中の左側に其蜩庵があった。

 その著作についてはフィクションと詩作がほとんどを占めている城さんに、雑誌などに寄稿されたエッセイを集めたと思われる『えぴきゅりあん』という随筆集がある。そこに『散歩』と題された一編が収められていて、夕方四時頃から自宅より大森駅まで散歩に出かけられていた城さんの日常の風景が淡々と描かれている。大森まで四・五十分の道のりを歩いていき、大森駅前で古書店と新刊書店を覗き、一杯やって、バスで帰ってくるという、なんでもない、そして少し羨ましくもある日常である。佐多稲子さんが大森駅から自宅までの二十分ほどの道のりの長さを嘆かれたことを思いあわせると、状況や目的が違うと距離への感じ方にも大きな隔たりが生まれてしまうのだな、などと考えてしまう。

 実は城さんがご自身について書かれた文章というのが随筆集のなかにすらあまりなく、『散歩』は城さんの日常を、そして馬込の風景を描かれた貴重な一篇ということに、私としてはなっている。

 散歩の道筋は、先ず三つほどになる。気が向けば小路から小路を抜けたりすることもあるが、大概、馴れた道を取る。その方が気が楽だからだ。
 三つの道のうち、その二つは、三分の一ぐらいまでは同じ通りを歩く筋になっている。だから沿道の風景は、もう、すっかり諳んじてしまった。

『散歩』 城昌幸 より

 城さんが諳んじてしまっていたという沿道の風景については断片的にしか書かれていないため、城さんの散歩道はどの道筋だったのだろうか……とつらつら考えてみるということに私はとらわれるようになった。城さんが『若さま侍捕物手帳』シリーズのヒットで得た収入をもとに其蜩庵を馬込に建てられたのは一九五六(昭和三十一)年のことで、まだ中馬込が田畑広がる一帯であったころのことである。手元にある『えぴきゅりあん』の初版の奥付が昭和五十一(一九七六)年十一月三〇日発行となっており、これは城さんが亡くなられて三日後の日付である。『えぴきゅりあん』が城さんの最晩年に企画された刊行であること、城さんの散歩は昭和三十年代から四十年代にかけて、城さん五十代から六十代の頃の馬込での習慣であったらしいことがわかる。

 昭和三十年代既に中馬込と南馬込の間には品鶴線ひんかくせんの線路が通っていて、これはいまでいうところのJR湘南新宿ライン、横須賀線及び東海道新幹線である。昭和三十年代の地図を眺めていると、城さんが大森に出るために品鶴線を越えようとすると道筋が限られてくるということに気がつくに至った。

 まずは二本木橋。品鶴線の上を渡る橋である。

 次に馬込橋。こちらも品鶴線の上を通る橋で、東急バスのJR大森駅と東急荏原町駅間ルートのバスが通っている。

 三番目は中馬込三丁目と西馬込一丁目を結ぶ、品鶴線の下を潜る道。

 最後四番目は環状七号線道路に出て、品鶴線の線路の下を潜り馬込銀座からジャーマン通り2を行く道。

 さて城さんの「三分の一」は上記のうちどの経路に該当するのだろうか。

 まず『散歩』には「自動車の類の成るべく通らない道を選ぶので、概して静かな仕舞太屋町を歩くことになる」というくだりがあることから最後に挙げた環状七号線道路沿いを使われることはあまりなかったのではないかと推測できる3。さらにこんな記述もある。

市場めいた狭い通りを抜けると、駅前から続く柳本通りという道路に出る。今はその名の柳並木を、すっかり取り払って両側を、アーケードに造った。雨の日は助かる。

 柳本通りというのは大森駅附近を線路と並行して通る池上通り沿いの商店街の呼び名であって、かつ大森駅から池上方面を指している。環状七号線からジャーマン通りを通って大森駅に出ると反対の大井町方面側に出るので、この選択肢はやはり排除して良さそうである。

 では最初に挙げた二本木橋はどうか。其蜩庵は二本木橋に近いのだが大森駅方面とは反対方面の丘にいったん登っていくことになる。この遠回りはさすがにないかもしれない。

 このように四通りの道筋のうち二つを消去してみたうえで改めてかつて其蜩庵があった辺りに立ってみると、内川に沿っていく道順を城さんが歩かない方が不自然ではないかとまでおもうようになった。大森駅に出るには馬込の丘の周辺を通って迂回することにはなるが坂をのぼらずに内川がつくった谷底の平坦なみちを歩いて行くことができる。つまり三番目のルートで、其蜩庵を出て内川を越えてから最初の角を右に曲がり川筋と並行した道を歩き、品鶴線の線路の下をくぐる。

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新幹線の車窓からみた内川流路をみた風景。前に見える空き地の左が内川あとの遊歩道で奥が上流、右の道が城さんの散歩道候補。其蜩庵は左奥である。二〇一四年に著者が撮影した写真だが、現在空き地には集合住宅が建っていてこのように分かりやすくは見えなくなっている。

 第二京浜国道を少し内川とは離れたところで渡り、しばらく脇道を行く。円乗院という真言宗の寺院のあるあたりから内川沿いの道を歩き、日本で最初に佐伯矩氏が栄養専門学校を開校した場所であることにちなんで佐伯山と呼ばれる森のそばを通り、村岡花子さん宅に近い出土橋で左に曲がれば大森駅まで、柳本通りを通って行くこととなる。

 三通りの散歩道のうち「その二つは、三分の一ぐらいまでは同じ通りを歩く筋になっている」ということだった。私の推測ではもうひとつの散歩道も途中までは内川沿いを行く。前述の円乗院のあるあたりがちょうど三分の一で、ここから馬込の丘の途中まで坂をのぼり、住宅地を縫って歩かれたのがもうひとつのルートではなかったろうか。馬込の丘の稜線を通る道は今では割と車通りの多いバス通りだが、城さんが散歩されていた頃は今よりももっと店が多く商店街然としていたそうである。「買物籠など下げ、白粉ッ気のない顔で、その辺の女房が肉屋などに行列しているのも、妙な感傷をそそるものだ」と描かれているのはこのルートでバス通りの商店街を通っていくときに目にされた光景だとすると、私としてはしっくりくる。城さんは其蜩庵を建てるより以前に馬込の丘からバス通りが臼田坂と呼ばれる坂を大森側に向かって下りはじめる辺りに住まわれた時期がある。この馬込にかつてあった商店街は城さんにとって勝手知ったる道筋であったはずだ。

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円乗院のある辺り。上り坂の左側、桜の木の枝が見えているあたりが円乗院。内川は手前を左から右に流れていた。城さんが緑のガードレールに沿ってやってきて内川沿いに散歩される姿、あるいは逆に坂を向こうにのぼっていかれる姿を空想する。

 私が推測ばかりしていることからわかるように『散歩』に内川が登場するわけでは全くない。城さんが書いているのは道すがらの家々の庭木のこと、通り過ぎるまちのひとのこと、建築中の家の様子などである。建築については「好きなのできまって立ちどまる。大工たちが居なければ入りこんで間取りを案じたり」したほどであったとあり、其蜩庵を建てられる際もきっと楽しかったに違いない。庭木もひとが考えて植えるものであると考えれば、城さんは「なにかをつくる」ということが本質的に好きでいらっしゃったのではないかという気がする。自然のことというか、最初から流れている川だとか聳えている山だとかいうものにはあまり意識が向かなかったのかもしれない。城さんが散歩されていた時期というのは、馬込の風景が農地の多い田園風景であったものが一九六四(昭和三十九)年の東京オリンピックに向けて一気に都市化が進む時期にあたっているわけだが、その過程に哀惜を感じるというよりもむしろ興趣を覚える気持ちのほうが勝っていたような様子が、その文章からはうかがえる。清らかであった内川には生活排水が流れ込むようになり水が汚れ臭いを放つドブ川に変わってしまい、そうなると散歩の際に疎ましくはあっても敢えて感興を呼び覚まされるような対象ではなかったかもしれない。

 最後に、三通りめの散歩ルートだが馬込橋を通るルートが残っている。其蜩庵から内川を越えて馬込の丘の稜線の道までのぼっていくと馬込図書館4が建っている。図書館前の交差点を右に曲がって稜線沿いを歩き馬込橋で品鶴線を渡る。だたこの通りは当時から車通りも人通りも多かったのではないかと思われ「自動車の類の成るべく通らない道を選ぶ」と述べている城さんとしては馬込橋を渡って第二京浜国道を越えたあとは左の脇道に入ってしまったのではないかというのが私の推測である。いったん馬込萬福寺まで坂を下りていき丘をもうひとつ越え環状七号線道路の方へ歩いていく。環状七号線もやはり人も車も多いので、並行している脇道を行かれたのではないか。このルートは丘を二回越えることにはなるが城さんはどうも健脚を誇っていたように思われ、たまにならこちらのルートを採っていてもおかしくないのではないかという気がする。

 健脚というのは先に引用したように城さんが大森駅までの散歩を「四五十分」と書かれているところからの推測である。私は自分が考えた城さんの散歩ルートを三通り実際に歩いてみているのだが一番遠回りになる内川沿いだと一時間以上かかってしまうのである。私は歩くのが殊の外遅いもので比較にならないのかもしれないのでおくとしても、城さんはなんでもない道のりだったような書きっぷりなのだ。帰りはバスだ、という気楽さがあったにせよ体力には自信をお持ちだったのではないかというのが地元の民として感じるところである。

『えぴきゅりあん』に採録されている別の随筆で、野村胡堂さんと『銭形平次捕物控』について書かれた文章のなかに城さんが幼い時代を過ごした神田明神下についてのこんな描写がある。

 実は筆者は曽て、この御台所町にすんだことがある。と云っても、もう半世紀も昔の話で、十歳ぐらいだろうか。二階の窓を開けると、目の前に明神社の石崖が、そそり立っていたのを僅かに覚えている。

城昌幸随筆集『えぴきゅりあん』に収められた「その界隈」より

 御台所町おだいどころまちとは平次親分と恋女房お静さんが住んだ神田明神下の住所で明神社、つまり神田明神の東側にあたる。神田明神に詣でたことがある方ならば境内の北側から東側にかけては城さんの記憶の通り「崖」と表現して良い地形になっていることをご存知だろう。また御台所町のすぐ南には江戸川、つまり神田川が茗渓と呼ばれる切り立った景観を為して流れており、聖橋で神田川を渡った先の駿河台もまた起伏に富んだ地形である。神田で生まれ育った城さんとしては坂があるのが普通だ、ぐらいの感覚だったのかもしれない。

 そういえば城さんが描く「若さま」もふらっと着流しの姿のまま旅に出て行くという場面が時々出てくるが、その常人ならぬ健脚の描写というのはは城さん自身の脚力から生まれたキャラクター設定なのかもしれない。

『大田区の文化財 第二十四集 地図でみる大田区(一)』に採録されている、一九五五(昭和三十)年修正版の地理調査所(現国土地理院)作成の地図に城さんが散歩で通られそうな道を筆者が書き込んだもの。
青……内川に沿った道。茶色……内川から途中で離れる道。黄色……馬込の丘の稜線にいったんのぼって馬込橋を渡る道。青と茶の道が別れる地点、黒の四角で示したのが円乗院。黄色の四角が馬込萬福寺。
黒の破線は馬込の丘の稜線と、大森山王の木原山の丘を示している。
  1. 言わずもがなのことだがこの庵の名前は訓読みすることで城さんの諧謔の意図が感じられる命名となっている
  2. 環状七号線が大田区東馬込、南馬込、山王の境を通る辺りで角度を変え南に向かう箇所があり、このカーブの辺りから大森駅の北側までの道をジャーマン通りと呼ぶ。環状七号線とジャーマン通りの三叉路が馬込銀座である。一九二五年〜一九九一年までこの馬込銀座に近い大田区山王の丘の上に東京ドイツ学園があったことからの命名である。ドイツ学園は現在は横浜市都筑区に移転している。
  3. 環状七号線は第二次世界大戦前より西側、つまり大田区側から開発が開始されている。其蜩庵から内川を越えて馬込図書館の前を通り過ぎて環七通りに出るあたりは第二京浜国道が松原橋で環状七号線の上を通る立体交差がある箇所で、松原橋が開通したのが一九四〇(昭和十五)年である。
  4. 城さんが亡くなった翌年の一九七七(昭和五十二)年に親族から大田区にその蔵書が寄贈されており「城昌幸記念文庫」として其蜩庵にほど近い馬込図書館に所蔵されている。図書は劣化のため地下書庫への保管となっているそうである。馬込図書館の二階には「其蜩庵」の額が飾られていたが、二〇二二年にふと気がつくとおろされており、あの額も蔵書と一緒に寄贈されたもので劣化のためしまわれてしまったのではないかと推測している。

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